言葉のカタチ

言葉にならないものをカタチにしよう

夢二の「立田姫」にひかれてミュシャを見逃す

美術館のライブラリーで竹久夢二の図録をみつけました。
表紙には代表作「立田姫」の姿。
美術館には「ミュシャ展」を見に行ったのですが、立田姫に魅了され図録に見入って一時間。それからミュシャを見る気にはなれず、結局夢二の図録に満足して帰ってきました。

夢二の描いた人々の姿には懐かしさを感じます。
よく思うのですが、明治、大正、昭和初期の風俗はなじみのないものなのに、なぜか懐かしい。

懐かしいという感情がどこからくるのか。
私個人の記憶にないものに懐かしさを感じるのは、日本の風土、日本人全体の記憶が共通意識としてどこかに共有されているのか。

または「懐かしい」という共通意識をカタチにするのが、夢二をはじめとする芸術家なのか。
そんなことを考えながら図録を眺めました。


表紙の「立田姫」は夢二の描いたものの中で一番好きな作品ですが、実は本物は見たことがありません。
画集やポストカードで見ただけです。
ですので、「立田姫」に画賛があることをこの日まで知りませんでした。
たいてい立田姫の全身だけで、賛の書かれた右端部分はカットされているんですね。


杜甫の「歳晏行」を一部引用した、

去年米貴缺常食
今年米賤太傷農

去年は米が高くて日常の食にも事欠き、今年は米が安く農民は苦しい生活をしなければならない。

そんな賛があると知ると、これまでわずかに微笑んでいるように見えた立田姫の表情が違って見えてきます。
目を閉じた女神は、自らがもたらす実りが多くても少なくても苦しまなくてはならない人々へ、悲しみ、憂いを含んだ慈しみの顔を向けているように見えてきます。

そんなことを考えると、よりいっそう「立田姫」の美しさが際立つようです。
私の個人的な趣味ですが、夢二の「立田姫」、鏑木清方の「築地明石町」は美人画の最高峰だと思います。

「ミュシャ」の美女たちの対極にある日本の女神に、心奪われた日でした。